シカチ・アリャンとかクラスニヤールとか

旅の印象は人さまざまで、ロシア極東について聞いたりすると、ナナイ人のシカチ・アリャン村は観光客慣れしていて日本語もとび出す始末だったよとか、ウデヘ人のクラスニヤール村のほうがまだ純朴だったよとか。もちろん、まあそうなんでしょう。。。

すでに世界的に有名な岩面画群を擁して大河の畔りでアクセス便利なのと、ありのままの自然のビキン川を最近になってエコツーリズムに役立ててるのとでは、訪問者の感じる「純朴」感が異なる、というか戦略上も異なるようにさせられちゃってんでしょうね。

いま世界で「未開」を求めてもなあ、、、すでに各々の村には戦略があると思います。観光の点からみると、シカチは「岩面画群」が資源だし、クラスニヤールは「自然・純朴」が資源だし。だから、シカチには岩面画を案内する日本語話者も当然いるし、もう25年も日本のNGOが自立支援のために尽力しています。

観光客もNGOも入っていなくて、母語以外の言語はぜんぜん知らない人たちの村。そんな場所を志向するんだったら、いまどきなら、よっぽど体力・知力・精神力とか総動員して「探検」しないとダメでしょうね、僕はハナからヘタレですけど。。。もしかすると、そんなの想像上だけのものになっちゃってるのかもしれません。

来夏はトゥバに行こうかな?あそこも創られちゃってんですか??

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「シカチ・アリャン村。人面の岩画と背後のアムール河です。2008年。」

 

 

 

 

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「クラスニヤール村のちかく。ビキン川を遡上するボートを操るウデヘ人。1995年。」

厳寒の映画撮影現場に行ってきた

10月末から11月初旬にかけて中国へ出かけた。ひょんなことから現在撮影中の映画のロケ現場を取材することになったからである。

映画のタイトルは、『アルグン河右岸』という。同名の原作が女流作家の遅子建により書かれ、同書は第7回茅盾文学賞を受賞し、中国では名の知れた作品である。

アルグン河はアムール河の源流の一つで中国とロシアの国境となっており、その右岸とは中国側を指す。エヴェンキ族は対岸のロシア側にも居住しており、この題名は民族が分断されているということも暗に示している。

物語は、同地に居住するエヴェンキ族の最後の女酋長の一代記であり、年老いた彼女が昔を回顧するという筋立てになっている。戦前、戦中そして社会主義建設と激動の時代に翻弄されながら生き抜き、民族の生活も遊牧から定住へと大きな変貌を遂げた、そのような内容の映画である。

今回は、監督やスタッフ、そしてキャストもほとんどが少数民族であり、エヴェンキ族を主人公にしたこの映画に対する意気込みは相当なものである。監督もこの映画を撮ることで今後の自分の映画へ姿勢が変わるだろうと述べた。そして、これまで長年に渡って少数民族の支援を行ってきたユーラシアンクラブに、ぜひ映画の日本での上映を実現できないかという打診があり、私が代表として取材に出向いた次第である。

撮影は内モンゴル自治区ハイラルからさらに北方の根河市で行われている。私は以前夏に大興安嶺を旅したおり現地を訪ねたことがあり、盛夏の美しい緑が印象に残っていたが、今回はまだ秋というのに厳寒の候となっていた。

取材の当日は、日中は屋外でエヴェンキ族の宿営地の移動のシーン、夜は屋内のセットに作られた天幕の中のシーンだった。日中でも零下15度ほどであたりは一面雪景色である。小さな子どもたちも含めてエヴェンキの一族がトナカイを連れて移動していくというシーンを撮り、私は寒さに震えながら半日ほど見学していたが、それでも実際の映画では5秒ほどのシーンに過ぎないと聞き、映画の撮影の大変さを垣間見た思いである。夜には零下20度ほどにまで冷え込んだ。屋内に天幕のセットを設けて室内の撮影をした。その合間に監督や主演女優へのインタビューを行った。ダフール族である監督はもともと画家であったが、黒澤明の本との出会いがきっかけで映画の道に進んだという。主演女優は浅野忠信主演のチンギスハーンの映画でハーンの母親役を務めたとのこと。その他にも、当日はいなかったが、スーチン・ガウアーという中国の国民的女優も出演する。中国ではおそらく評判になるだろう。

監督(中央)と俳優渋谷天馬氏(左)

この映画は、言わば”文部省推薦”のような、子供から大人にまで少数民族について考える機会を与えてくれる教育的な映画である。できることならば、ぜひ日本での上映を実現させてできるだけ多くの人に観ていただきたいと願っている。

中国に小説家の故・吉田直氏の著作を寄贈

世間的には北京五輪に沸いた2008年だったが、筆者の個人的な思い出としてはひとつのささやかなイベントを開催できたことが心に残っている。それは、若くしてライトノベルの人気小説家となったが病気で夭折した学生時代の友人である吉田直(本名・松本直)氏の著作を中国の団体に寄贈する式典だった。

吉田氏は、幼少期より中国史に関心を抱き、東大東洋史学科を目指して二浪するもかなわず早大へ進学。就職先も中国との関係が深い製鉄業を選ぶも社風が合わずあえなく退社した。しばらく無為に日々を過ごすも一念発起し、友人らの助力や阪神大震災もあり運良く京都大学大学院に合格し、「人生で最も輝かしい日々」(父談)を過ごした。研究の傍ら2週間で書き上げた『ジェノサイド・エンジェル 叛逆の神々』で第2回スニーカー大賞<大賞>を受賞してデビュー。応募時のペンネームは自宅住所(京都市左京区吉田)をもじった吉田左京だったが、小松左京と紛らわしいと却下され吉田直となった。以前から中国を舞台とする歴史小説執筆の志があり、周囲には「ポスト司馬遼を目指す」と漏らしていた。受賞時に父に電話で「司馬遼太郎もお子様小説から出発したのだ」と語ったという。北魏の孝文帝を主人公とする作品や、『三国志』を孫権の視点から描き直した作品の構想があり、後者については「長江に風がびゅうびゅうと吹き渡り…」という書き出しまで考えていた。すでに人気作家となった逝去直前、「もう編集部にも物が言えるようになった。3年待ってくれ、直木賞をとるから。その自信もある」と父に語った。「中国のことを勉強したからこそ書けない。物書きとしてもっと勉強してからでないと」とも。代表作の『トリニティ・ブラッド』シリーズでなぜバンパイア(吸血鬼)を登場させたのかと問われ、「自分も血液の持病を持っているので、それについてはよく調べたから。自分はその病で命をとられることになると思う」と生前答えたこともあった。

血液の病気で吉田氏が逝去したのは、ちょうど筆者が中国に赴任する直前だった。中国好きの彼から祝福されたのを憶えている。それでご両親に彼の著作を中国に寄贈しますと約束したものの多忙を理由に果たさず、結局帰国してからのことになってしまった。しかしながら、在北京の仲間達の援助があって、北京・清華両大学の研究会、北京現代視覚研究会、動画基地、日本の国際交流基金図書室の各団体に寄贈することができ、昨年9月に国際交流基金・日本文化センターでその寄贈式典が開かれたのである。

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寄贈式典の模様

今年4月に訪中した麻生首相もそこを訪れ、国際漫画賞受賞者と懇談したことがメディアでも報道されたように、中国でも漫画、アニメなどの”オタク・カルチャー”は非常に人気がある。吉田氏が逝去した直後に彼を追悼するページが中国のインターネットにもすぐ現れたほどだ。『人間には二つの死がある、一つは肉体の死である。二つ目は、「志、ロマン」の死である。僕は肉体の死は受け入れられても志の死は耐えられない。』というのが生前の彼の口癖だった。彼の「志、ロマン」が中国の人々により理解されることに少しは貢献できたかと思う。そして今後、日中間のさらに幅の広い現代文化の交流がもっと親密になり相互理解が深まることを願っている。

北京郊外の夕べ

北京市は広い。日本でいえば四国を一回り小さくしたくらいある。でも市街地は案外狭い。北京市には環状道路が6本あって、中心部の天安門から10数キロの環状5号線を越えるともう緑の田園風景が広がっている。環状3号線以内に居住するのが本当の北京人だと聞いたこともある。日本から仕事で来る駐在員もたいていは3環以内に住み、働き、遊んでいる。北京見物で訪れる観光客も、万里の長城や明の十三陵などを除けば、5環より外に出ることはまずないだろう。

私は、北京生活の後半を5環を越えてずいぶん郊外の方で過ごした。北京に居住している人たちからも驚かれるくらい郊外だったが、それでも都心から高速バスに座り早ければ30分くらいで着けたから、東京で片道2時間を満員電車で通勤する人たちから比べれば楽なものだった。自宅の周りはまだ畑や空き地も多く、羊が散歩などしているのどかな場所だった。

そして、自宅から小一時間歩いたところにローマ湖という湖があった。人造湖だが、空が開けて気持ちの良い場所である。はじめそこには峪湖園という感じの良い料理店が一軒だけあった。農家のレトロな雰囲気を醸し出した店構えで、湖を望める席もあれば、店の奥にはオンドルを備えた個室もある。北京の田舎料理がお勧めで素朴ながらも味付けは上品だった。その店はたいそうはやっており、遠くからも自家用車で訪れるお客で休みの夕方などはとても繁盛していた。湖の傍らには釣り堀もあって、そこで釣った鮒や鯉を持ち込めば、好きなように料理してもくれる。私のお気に入りの店だった。

驚いたことに、3年間住んでローマ湖に足繁く通っているうちに、峪湖園の付近にエスニックやベジタリアンのレストランやカフェなどおしゃれなお店がどんどんできて、リゾートの趣になってきた。訪ねてくるお客もますます増え、道端には高級車がずらりと並ぶようになった。湖の周囲は典型的な農村だから、湖のほとりだけ別世界のようになった。

北京の中心部は公害で空気も悪いから、都心の人たちが息抜きのために訪れるようになったのだろう。ちょっと離れた所には、ロハオという冗談みたいな名前の自然食品店もできた。北京の高所得者の間でも自然に対する関心が高まってきたということなのだろうと思う。他にも欧米人の家族連れをよく見かけた。自家用車を駆ってやってくるようだ。よく調べているなあと感心する。残念ながら私が招待した人たち以外に日本人は見かけなかった。都心の盛り場で遊んでばかりなのだろう。実際、自分の見聞の範囲でも日本人は行動圏が狭い気がする。

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ローマ湖で釣りに興じる人達

さて、そんな郊外にも都市化の波は徐々に押し寄せてくる。区画整理がなされ立派な道路が作られた。私が北京を去る頃には以前見かけた羊の群れも自宅近くではもう見られなくなった。郊外の素朴な田園地帯もこれからどんどん様変わりしていくことだろう。

北京の水不足と迫る砂漠、そして市民の取り組み

北京オリンピックの際に心配された水不足は諸々の対策で何とか乗り切ったが、北京の水不足は相変わらず深刻な状態が続いており、それと同時に深刻な砂漠化の問題も存在する。

サーチナの報道によると、「もともと中国の1人当たり水資源量は年2200m3で、これは世界平均の約4分の1しかない。その上、地理的・時間的な水資源分布の不均衡がある。南方は降雨量も多く、その水資源は豊富であるのに対し、北方は降雨量が少なく、河川の流水量も多くない。更に言えば、華北地方には北京、天津という大都市を抱えているため、1人当たりの水資源量は極めて少なくなる。特に、北京の1人当たり水資源量は年300m3とされ、生活する上で最低水準と言われる年2000m3をはるかに下回り、世界平均の30分の1しかない」状態だという。その少なさには驚いてしまうが、北京に実際に生活している限り、その水不足の深刻さは実感できない。ふんだんに水は出る。ただし、水質汚染の問題もあるため、飲料水はポリタンク入りのものを購入する家庭が多いが。これは、北京の2か所のダムと地下水の汲み上げという自前のほか、近隣のやはり水不足に悩む山西省や河北省のダムから大量の水を直接引いているためで、抜本的な問題解決には至っていない。

砂漠化については、最近、一つの砂丘が北京からわずか80キロの距離に迫っていると報道されている。砂漠化は、自然的、人為的な要因が重なって発生するものだが、特に中国北方では人為的な開墾が砂漠化のペースを加速させている。市内でもおり砂の害は深刻だ。黄砂の吹く時期はもとより、普段から厳重に戸締りをしていても家の中まで砂は入り込んでくる。

こうした環境問題の解決には大規模な施策を講じなければならないが、南部長江の水資源により北部の慢性的な水不足を解消する「南水北調」プロジェクトが、今年春に北京市で5年延期されると発表され、10億立方メートルの水資源が送り込まれる予定が2014年にずれ込むことになり、北京市の水資源を取りまく状況は今後一層厳しさを増すことが明確となった。

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北京郊外のある生態園の風景

そのような中、近年では市民個々人の自覚と草の根の取り組みも芽生えてきている。例えば、身近なところでは日々の節水の努力をしたり、また北京郊外における植林活動へ参加したりすることなどだ。荒れ山に苗木を植林することで砂の四散を防ぎ、涵養林を育成する。さらに先進的な例では、周囲で有機農作物を生産することで食の安全にも配慮し、荒れ山の資源化により環境と社会経済双方に利益をもたらし、循環型の生態系を回復させようという試みを非営利環境保護団体が行っている。私もそのいくつかに参加していたのだが、団体は高い理想を持って活動していると感じられた。そのような小さな一歩がやがては大きな変化をもたらすのだろう。

こどもの北京

中国では「公園デビュー」なんて言葉はないだろう。その意味を言葉で説明しても理解してもらえないんじゃないかな。中国と日本の双方で父親の子育てを経験していろいろな違いに驚くことがある。そのいくつかを紹介してみたい。

北京の自宅がある居住区の公園に息子の手を引いて遊びに行く。何人かの子供たちが親に連れられて遊んでいる。すると子供ばかりでなく親たちもすぐ親密になって会話を始める。父親で変な外人の私のような者でもすぐに仲間に入れてくれる。子供の誰かがおもちゃを持ているとすぐに子供どうしで分け合って遊び始める。親の誰かがお菓子を持っていると子供たち皆に平等に分けてやる。急に人の集まっている公園に行っても疎外感を感じることはなかった。とてもおおらかで気持ちよかった。以前、日本の公園に子供を連れて遊びに行ったら、あるお母さんが自分の子供にお菓子を与えていたが、私の子供がもの欲しそうに眺めていても与えはしなかった。最近は食中毒などいろいろ問題もあって、他人の子供にお菓子を与えることに神経質になっているのかもしれない。

レストランに息子を連れて行くと、勤務時間なのに服務員のお姉さんがかわいがってくれる。ちょっと目を離した間に、厨房の裏庭でいっしょに遊んでくれていたりする。おかげで友人と飲みに行っても子供の世話を気にする必要がなかった。日本のレストランでは子供のちょっとしたいたずらで注意を受けたりする。子連れでレストランに入るのに気兼ねしてしまう。

私の息子が通っていた幼稚園は北京郊外の自宅近くの百霊児童倶楽部といった。アメリカ留学帰りのウェイ園長が始めたものでアメリカ流を取り入れた実験的な幼稚園で、息子はその第1期生だった。園内の設備は、遊具にしろ図書室にしろ、いま息子が通っている世田谷区の公立保育園と比べても非常に充実している。そこは親子の触れ合いをモットーにしていて、普段から休日には親子ともども楽しめるイベントが用意されている。運動会、ハイキング、読書会、クリスマス、国慶節などだ。ウェイ先生の自宅と我が家は間近なので、毎朝夕先生の自家用車で園に送迎してくれる。保育時間は朝8時半から夕方6時まででご飯も3食付いている。最近は英才教育も盛んで、幼稚園から英語や漢字の学習も盛んだ。1か月の月謝は1500中国元、日本円で約2万円強といったところか。もちろんある程度裕福な子供しか入れないが、中には4000元の幼稚園もあると聞くし、教育熱の高い最近の北京では一般的な方だ。誰かの誕生日には親御さんがケーキを差し入れたりする。私も息子の誕生日には日本から訪ねてきたおばあさんと特製ケーキを持参し園児たちと一緒に食べた。日本に帰ることになったとき、ウェイ先生は自動車で荷物の搬送を手伝ってくれ、別れ際には涙を流してくれた。

それに比べると日本の保育園は非常に事務的で規則や個人情報保護に神経過敏で初めはとまどうことが多かった。最近はモンスター・ペアレントも多いと聞くからしょうがないのかもしれないが…。百霊児童倶楽部をときどき懐かしく思い出す。DSC00746

 

そして、自己への問いかけ

いま中国の北京で暮らしている。探検部の現役部員の頃から10年余りの時が経ち、紆余曲折を経てこの地に身を置いてみると、”探検”という行為について改めて考えさせられることもある。過去の自分を振り返りつつ、今の思いを素描しておきたい。

中央アジアに憧れを抱いて探検部に入部した私にとって、もっとも印象に残る現役時代の思い出は、1993年の夏にカスピ海北西岸にあるカルムイキア共和国を訪れたことだった。まだソ連邦崩壊の直後で外国人に開放されて日も浅く、そこは自分にとって心理的な空白地帯だった。当時は、現地に出かけてそこに生きる人たちの暮らしぶりを垣間見られただけで満足だった。

学部卒業後もNGOの活動を通じて中アジアとの関係を保ち、カルムイキアへも何度か足を運ぶうち、そこに元兵士でシベリア抑留の後そのまま残留したというただ一人の日本人男性が暮らしているという話を聞いた。そして、首都から遠く離れた小さな寒村に当人を訪ねてみる機会をもつことができた。

その男性は”中川サダオ”と名乗ったが、名前の漢字はすでに忘れており日本語も片言しか出てこない。東京出身で軍学校を卒業してパイロットになり、南方戦線に従軍して戦果を挙げて表彰もされ、のちサハリンに転属して敗戦を迎えたという。抑留後は帰国を許されたのだが、自分の意志で残留する道を選んだ。その理由としては、惚れた女性がいたためだとか、病気療養のためだとか、尋ねる人ごとに答えも変わるという。語れない事情もあるのだろう。シベリアを離れてウズベキスタン・ダゲスタンと移り住み、ようやく安住の地を見つけた。当地で三番目の妻や義理の娘とともに住み、人造湖の水位管理の仕事をしながら、村の子供達に”サーシャ”と慕われつつ一緒に釣りを楽しみ、穏やかな老後を過ごしていた。日本への帰郷を望むかという問いには、はっきりとは答えてくれなかった。

印象深かったのは、「ありがとう」という力強い声と、私達の車がステップの一本道を帰りお互いが地平線の彼方に消えるまで、いつまでも直立して手を振り続けてくれたことだ。カルムイクには”アルグ・ホルワ”という言葉がある。”人生さまざま”という意味だそうだ。広大無辺の大地にそれぞれの人生があり、その一つに中川さんの数奇な個人史がある。それは、「はるばる遠い所までやって来たなあ」という自分のそれまでのやわな感慨を打ち砕くものだった。同時に、個々の人生の背後にあり、それを翻弄する歴史の重みを感じた。

私は北京で教員をしている。昨年(2005年)は中国全土で反日運動が巻き起こった。だが、職場は大学院大学なので学生たちは自分と同世代かそれ以上で年齢層が高く、彼らの多くは”89年”を肌身で体験しているので冷静だった。北京で一番激しいデモのあった4月9日も、学生たちとちょうど満開だった桜の下で、日本酒を飲みつつ花見をして交歓した。しかしそれでも、職場における唯一の日本人として、彼らから時として冷水を浴びせられるような質問や批判を受けたりすることもある。そうしたとき、まだ私は彼らと自分がともに納得できるような答え方を知らない。無色透明な異邦人としてはありえない自分の立場を感じ、自己の出自を顧みざるをえない瞬間である。

中国に暮らすことになった直接のきっかけは、縁あって内モンゴル自治区出身のモンゴル族女性と結婚したことだった。異文化への興味は以前から漠然とあったのだが、まさか自分の家庭が異文化共生の実践の場となるとは思ってもみなかったことだ。環境をまったく異にして生きてきた者同士では、ちょっとした異文化体験としてではなく”日常”として共同の生活を営むのは、それぞれの風習のちがいからけっこう骨が折れるものだ。だが、そうした表面上の問題はさておき、内面で沸き起こるのは両地の歴史的因縁を看過することはできないという思いだ。

妻の故郷のある自治区の西部は、かつては蒙疆と呼ばれ、張家口を中心として日本の傀儡である蒙古連合自治政府が置かれた場所である。親戚となった人たちを訪ねて各地へ足を運ぶと、あちらこちらで支配者の夢の痕跡に出くわしたり、日本軍の”五原作戦”と呼ばれる戦闘で、故郷を追われ陰山山脈を越えはるか北方の草原地帯まで逃避行した冒険談をしみじみと語ってくれたりする。昨年の秋に催された義弟の結婚式の折には、田舎から出てきた文盲の親戚が、おそらく知っている唯一の日本語なのだろう、「バカヤロウ」と連発しながらニコニコと親しみ深く私に声をかけてくれたが、あとで「それはどういう意味ですか」と真顔で尋ねられた。みな悪気はないのだが、こちらは苦笑するばかりで答えに窮してしまう。

冒頭で、”探検”について考えさせられると書いたのも、こうした自分の今の立場に関係する。言うまでもなく、探検部の源流のひとつには、戦前・戦中の蒙疆をフィールドとした輝かしい探検の歴史がある。同地におけるそのほか数多くの探検や調査と見比べても、やはり圧倒的に京都学派の比重は重い。そもそも同地でなぜ探検が可能であったかといえば、当時の支配と被支配の関係を抜きには考えられない。さらに、探検や調査の成果は、純粋に中立的なものとしてはありえず、植民地あるいは戦争といった実際上の政策と深く結びついていたことは明らかだ。もちろんマージナルな領域である関係上、単純な二元論に還元できない複雑な背景も考慮しなければならないのは当然だが。こうした問題が机上の論理としてではなく、身近な問題として差し迫ってくる。自分が同地に身内を持つことになったと同時に、京大の探検的伝統の最末端に身を置く者として、過去の歴史的状況の中での”探検”の功罪を明らかにすることの責務を感じる。学部卒業から久しくなり、日本を離れたというのに、むしろ心の中では原点を探し求めている自分に気がつく。

私は将来にわたって、民際交流として環境やマイノリティの課題を通して内モンゴルと関わっていきたいと希望している。その際には現地の仲間と「する」とか「される」というのではなく対等な関係を結びたい。そのためには、「”いま・ここ”にいる自分の軸足がどこにあって、どんな眼差しで現地に関わるのか」という自分の立場を明確化する問いかけに常に真摯に向かい合っていかなければと思う。その前提となるのが、過去の日本と現地との関わりについての正しい把握だ。現地の知人に「探検についての歴史を調べるのだ」と言うと、「スポーツとしての探険ですか?」と問い返されることが間々あって驚くことがある。現代中国語では”探検”という言葉は一般的ではないようだ。「探検される側」にあった人たちとの認識のギャップの大きさを感じる。前途は多難だろうけれど、その両者のギャップを埋めながら、先の問いかけに対して自分なりに納得できる回答を見つけたい。それはまた、今はまだ幼い日本とモンゴルの血を引いた息子に対して、将来語るべきことでもあると感じる。

ナショナリズムと文化について考える その3

さて、前回の続きで「文明」という語については、中国の街のあちこちで見かける。自分の職場の建物にも「文明単位」と書いた札があるし、お店でも食堂でも、あるいは列車やバスでも見かける。自分のよく乗るバスの名は「青年文明号」だ。とにかく3年後の北京オリンピックまでに、もっともっと文明的にならなければいけないらしい。スローガンもいっぱい書いてある。何だか文明の安売りみたいだ。自分としては、「黄河文明」みたいな使い方しか見慣れていないから、どうも違和感がある。でも逆に、日本では「文化住宅」だとか「文化包丁」なんてものがあるから、文化という語は巷に溢れていると言えますね。

同じ漢字を用い、ほとんど同じ意味を持つ両国の「文化」と「文明」だけれども、微妙なニュアンスの違いがあるのだなあと感じる。もちろん、両方とも元をただせば中国の古典の『書経』や『易経』などに由来する言葉だ。それが明治の”文明”開化の時期の日本において紆余曲折を経て、ヨーロッパ語のCultureと Civilizationの訳語として定着し、さらにそれらが中国に逆輸出されたという。しかしながら、「文化」と「文明」の各々の定義はよくわからない。辞典には、文化はより精神的で文明はより物質的などという説明があったりするが、その境界はあいまいだ。あるいは、「文明とはある一定程度のレヴェルを超えた文化」と理解される場合もあるらしいが、何とも差別的な発想だ。日本の文化のレヴェルももう少し向上したら、私の講義の題目も「日本文明講座」にしてもらえるということかな?

それなら原語のヨーロッパ語には厳密な定義があるのかと思っていたら、最近興味深い書物を読んだ。それによると、ヨーロッパにおいても文明や文化に当たる言葉の歴史はそんなに古いものではなく、用法が定着したのは18世紀半ば以降だという。そして、両者は共に西欧の自己意識を表わす概念であり、文明はフランスの、文化はドイツの国民意識であるという。文明は普遍主義的であって、誰もが文明化されうるものとされ、頂点のフランス以下文明化途上の人々を序列化する。一方、後発国民国家たるドイツにおける文化は固有性を主張するものとして、移転や同化されえない精神性として構築されたという。日本において大正時代以後は文化という語が広く用いられるようになったが、同じ条件の下にあったドイツから文化概念が導入されたのは必然の結果であろうという。(西川長夫『国境の越え方』)結局、二つの言葉は、「人間が自然状態から自らの手で創造し世代を通じて伝えるコトやモノ」という同じものを指しつつも、ナショナルな用語と併用されるとき、どちらもインノセントなものではありえず、それぞれ相反するイデオロギーを背負ってしまっているんですね。

文化相対主義という考え方に対して批判があるのも、ヨーロッパ中心主義に対抗する点では効力があったとしても、要するには、仮にあらゆる文化を相対化しても互いの文化の間に乗り越えられない壁を築いてしまうという点だろう。文化という語は、ときには自己の後進性や劣等感を隠蔽する隠れ蓑になったり、ときには排他と拒絶のメッセージになったりする。以前に日本の教育基本法について調べているとき、この法律の目的として「文化国家」という語を使わずに「文化的な国家」を建設するという表現を使っていることを評価する議論を見かけた。二つは似ているようで意味するところは全然違う。「文化国家」はドイツ流の文化概念を前提にしたドイツ語からの輸入語だ。後者の表現ならば「文化」にナショナルな限定性がない。しかも条文中のどこにも「日本人」という表記もない。現行法では、いかなる出自やアイデンティティを有する子供にも教育の機会を保障している。

職場の文明単位の看板
職場の文明単位の看板

私がこの連載の冒頭で述べた「日本文化」の講義を受け持つに当たって抱いた違和感も同じ理屈による。せめて「日本」と「文化」の間に「に見られる」とでもいう言葉を入れて欲しかった。中国においても「文明」と「文化」の語は同様のイデオロギー性が意識された上で用いられているのかは知らない。しかし、少なくとも日本語において、私は、「文化」という語はもう無邪気には使えない。「相対化」ではなく「共生」を目指すためには、「文化」という語を使う際に、どのような場面で、そしてどのような言葉と併用するか、慎重に吟味しなければならないと考える。

ナショナリズムと文化について考える その2

前回は、「文化」や「文明」という言葉の意味合いや使い方で、どうも日本語と漢語では微妙に重なり合わない部分があるような気がする、というところまで話が進んだ。その例を記したい。今回は「文化」について。

こちらに来てから、「あなたの文化程度はどのくらいですか?」と人に尋ねられることが間々ある。(急にそんなこと訊かれてもなあ。まあ、遊んでばかりだから低い方かな?ともかくぶしつけな質問だなあ。何と答えよう?)などと最初は考えてしまった。でも、これは単に最終学歴を訊いているだけなのですね。「文化程度」という欄は戸籍簿にもちゃんとある。学校の成績も「文化水平」と言われたりする。どうも、文化というのは序列化や数値化できるものとされているようだ。高い低いといったあいまいな程度ならともかく、きっちり厳密に計られると、日本語を母語とする自分としてはどうも釈然としない。

そこで、自分なりに考えてみた。これは中国古来の華夷秩序の伝統が影響しているのだろうか。それとも、「文化」とは文字通り「文が化けて頭の中に記憶として定着する」ことを指すのだろうか。そうだとすると、長い科挙の歴史を有するから文化程度は厳密に計れるものだとされるのだろうか。それなら、文化の中味は明示されないまでもなかんずく儒教思想ということになるのだろう、などと。

「日本文化講座」を担当することになり、初回の講義で手始めに、よく安直に用いられる「日本文化」という語について、もういちど初心に帰って、それを「日本」と「文化」に分解して、それぞれ何を指すのかを皆で吟味してみた。その詳細は措くとして、「文化」についての話の中で、私が「サルにも文化はある」と発言した。日本の霊長類学はつとに有名だ。その黎明期に、宮崎県幸島においてニホンザルの群れのあるメスザルが、イモに付いた砂を海水で洗うことを覚え、それが血縁や仲間を通じて群れに伝播し、さらに親子関係を通じて世代間で伝播したことが観察されたという。このサルのイモ洗いも、後天的に獲得され集団内で共有され世代を通じて伝播したものであるから、立派な文化と云えるのではないだろうか。(慎重に「文化的行動」という語が使用されるけれど。ニホンザルの話だから、これも「日本文化」かな?)すると、ある学生は意外そうな顔をしてから「サルに文化があるなどということは言えません。」と真っ向から反論した。少なくともその学生にとって、文化というのは重たい意味を持つ語なのだろうと感じた。

ところで、中国ではかつて文化大革命と呼ばれる運動があった。私の大学時代のある先生は、中国人の国民性の問題を扱った論考の中で、儒教に代表にされる封建思想を打破しようとした清末以降の思想史の流れの中で、「毛沢東の思想はそれほど特殊のものではなく、やや過激ではあるが近代革命思想の正統な嫡子と言うことができる。」と述べている。文革の実態はともかく、なぜその運動に「文化」という語が冠されたのか。近代を迎えるに当たって「文化」と対峙しなければならなかったことを考えると、漢語においてこの語に秘められた意味はより重要なものに感じる。これは単純に日本語の「文化」には置き換えられないだろうし、ましてヨーロッパ系の言語、例えば英語で文革は”the cultural revolution”と訳されるけれど、カルチャーの革命と言ってもその意味するところは伝わらないのではないかなと思う。ヨーロッパの人達に対してならば、「文化」という語の重要性を指摘する際に、比喩として「宗教」という語を使ったらいいかと思う。中国における文化、ヨーロッパにおける宗教ときて、翻って、日本において近代化の過程で乗り越えなければならなかった対象ははたして何だったのかな、とふと考えてみたりする。(この項つづく)

ナショナリズムと文化について考える その1

6月も半ばを過ぎ、北京は連日40度近い猛暑が続いている。この暑さでは勉学どころではなく、そろそろ大学院でも終了になる講義が出始め、私の講義も残すところ2回だ。実は、内心ほっとしている。この半年間の学期は本当にしんどかった。というのも、担当は「日本文化講座」なのだが、私はそもそも「日本文化なんてものはない」というのが持論だからだ。開講前には「生花や茶道なども紹介してください」などと依頼されていた。だけど、どっちもまるきり興味も知識もないしなあ。結局、「お花」に関しては花見酒しかしてないし、「茶道」については6月4日という政治的に微妙な日に催されるはずだった茶会に学生達と参加するはずだったけど、反日の煽りでそれも中止されてしまったし。そのほか、「大和心」も私には語れない。「もののあはれ」も「わび、さび」も「武士道精神」も…。それでも日本人なんですね。ちょうど同時期に、北京の国際交流基金が日本文化の連続講座を開催していたので、「いわゆる日本文化が知りたければそっちに参加してください。私の講義ではそっちでは決して語られないような話しかしません。」と開講時に宣言して、私なりの講義を何とかしてきた。

「文化」とは、「…自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果。…生活形成の様式と内容を含む。…」(『広辞苑』)であるとすれば、「日本」という国家の枠組みで区切らなくとも、いくらでも上位区分も下位区分も可能なはずだ。文化の担い手は生物であり無生物の国家ではあり得ず、極論すればこの列島には1億2千万通りくらいの文化があってもいいし、それらも絶えず変容し続けているはずだ。卑近な例として、無考えな日本文化の紹介本には、「日本人は正月に雑煮を食べます」などという記述がある。けれども、雑煮と一口に言っても、餅には角餅・丸餅(各々焼くか煮るかの区別あり)・あん餅があるし、汁にも赤味噌・白味噌・すまし・小豆汁があり、その組み合わせの数だけの地域的多様性を前提にしなければならないし、具を考えたらその多様性はさらに膨らむ。加えて、沖縄とアイヌには雑煮を食べる風習がないことや、山間部の所々では決して餅を食べずに芋を食べる風習もあり、それは稲作以前から連綿と続いてきた焼畑農耕という生業を考慮しなければ説明がつかないことも最低限言及する必要があろう。かつてのCMのように「お節もいいけどカレーもね」と言って、正月はレトルト・カレーだけで過ごす家庭の文化があってもいい。ちなみに北京では、食堂でもお店でもカレーを見かける機会はほとんどなく、スーパーでごくたまに見かけるのは日本からの輸入品だ。これも日本企業が形作った立派な食文化のひとつと言えるだろう。

そんな訳で、講義では常に語り手である私にとっての常識や見聞という個別例を一般化しないように注意し、決して「日本人は(日本では)こうです」なんていう語り方はしないように心がけてきた。まして、「生花や茶道」なんていう外部の他者の眼に映るいわゆる「日本文化」のイメージをさらに補強するような真似はしたくなかった。これでは、オリエンタリズムの逆輸出になってしまう。一方、学生達に尋ねる際には、最大の枠で考えるにしても「漢族(漢語)ではどうですか」という程度の尋ね方しかできない。(ところで、ある知人から「あなたの息子さんは中華民族です」と言われたことがある。親の私も知らなかった。驚いた!)

しかしながらそもそも、中国に来てから「文化」さらには「文明」という言葉の意味合いや使い方で、どうも日本語とは微妙に重なり合わない部分があるようで気になってしょうがない。次回は、言葉そのものの定義について自分なりに考えたことを記したい。そういえば、私の妻の名前もモンゴル語で「文化」という意味だ。「文化」を扱うというのはほとほとやっかいなものなのですね。(この項続く)