“ヨーロッパ唯一の仏教国”カルムイキア紀行 ~草洋にたゆたう民族と人生~

The account of my trip to Kalmykia “The only one Buddhists’ country in Europe” ~The nation and life drifting on the Steppes~

はじめての地へ

写真1:リスタ市街地を臨む。1993年当時。
写真1:リスタ市街地を臨む。1993年当時。

モスクワ郊外のヴィコボ空港に到着すると、そこにはもうロシアの田舎の雰囲気が漂っていた。この空港には地方都市を結ぶ国内ロ-カル便だけが発着している。故郷へ帰るのであろう、大きな荷物を抱えた普段着の人々で賑わっていた。エリスタ行きの搭乗手続きが始まると、まるで日本人のような顔つきをしたカルムイク人達が集まってきた。飛行機はモスクワから一路南へ向けて飛ぶ。3時間ほどして降下が始まると、草原の只中に小じんまりした町が見えてきた。目的地-カルムイキアの首都エリスタである。(写真1)小さな空港の滑走路に降り立ってぐるりと見回すと、辺りには何もなく地平線まで見渡せる。ちょうど西の果てに大きな赤い夕陽が沈んでいく黄昏時だった。

1993年の夏、私はロシア連邦のカルムイキア共和国を初めて訪れた。もともと内陸ユ-ラシア世界に憧憬を抱いていた私は、ある日『「私が当選したら各家庭に100ドルずつ配る」と公約して大統領になった青年実業家がいる』というカルムイキアについての奇妙な新聞記事を目にして興味を覚え、その地へ行ってみようと決めたのだった。そんな単純な動機からの訪問ではあったが、その地に愛着を持ってしまい以来度々訪れている。

世界地図を広げてみれば、東洋と西洋のあいだに横たわる広大な空間-内陸ユーラシア世界が眼に留まる。”シルクロード・ブ-ム”などで歴史的な視点からロマンチシズムをもって語られることは多いが、この地域の現状についての我々の知識はあまりにも乏しいのではないだろうか。とくに、ソ連という社会主義体制をしく巨大な中央集権的人工国家に包摂された地域は、国際社会の表舞台から長らく姿を消していた。ところが、ソ連崩壊後にこの地域は再び動きだした。固有の政治経済圏の復活や宗教の再興などで独自性を現しつつあり、一方ではチェチェンやカフカースでの戦争、さらに9・11以後はテロとの関連でクローズアップされてもいる。このように変動する内陸ユーラシアを把握する上でのひとつの手がかりとして、カルムイキアを取り上げたい。この拙稿では、何度かの訪問の体験で得た印象を、とくに出会った人々を通して素描してみたいと思う。

ユーラシアの大海に翻弄された歴史

カルムイキアは正式名称をカルムイキア・ハリムグ・タングチ共和国という。ヴォルガ河下流の西岸、カスピ海の北西に位置し、面積は7万6千平方キロメートルで北海道よりやや小さく、人口は32万2千人である。首都とはいえエリスタは人口8万5千人にすぎない。(注1)主な産業は牧畜だが、ロシア連邦のなかでも最貧国に属する。国土の大半は海抜0メートル以下の低地で、町を外れれば単調なステップがどこまでも続いている。

カルムイク人は、西モンゴル族オイラートの一部でチベット仏教を信仰する遊牧民であった。もともとは現在の中国・新彊ウイグル自治区のジュンガル地方に居住していたが、内紛や清朝の遠征により17世紀前半に現在の場所に移住してきた。勇武をもって知られる彼らは帝政ロシアに対して、北方戦争・ナポレオン戦争・露土戦争などの対外戦争の度に軍事的に協力してきたが、一方ではロシア人の入植やロシア正教への強制改宗への反発からラージンの乱・プガチョフの乱などの農民反乱にも加わった。帝政ロシアの圧政により、一部のカルムイク人は1771年に故地のジュンガル地方へ、その道中に人口が半減するような過酷な旅路を経て帰東したが、ヴォルガ河が凍結していなかったためにその西岸にいた人々は取り残され、現在当地に居住するカルムイク人の祖先となった。(注2)ロシア革命後の1935年に自治共和国が成立したが、第二次大戦中にドイツ軍が一時期当地を占領したことから、ドイツ軍退却後の43年に突然「対独協力の罪」を着せられて自治共和国は解体された。そして、ある日突然シベリア・中央アジア各地に強制移住させられたのである。この措置が撤回されて自治共和国が復活したのはスターリン批判後の58年であるが、そのときには人口がまたもや半減してしまっていたという。

再興する”民族”

毎回カルムイキアを訪問して印象的なのは、失われていた民族の記憶を取り戻そうとする試みの数々がなされ、町が大きく変貌していく様子である。

93年の初訪問では、大学の教室の壁に大きくチンギス=ハーンの肖像が描かれているのを見た。ソ連時代には敬うことなど禁じられていたものである。町の食堂にはダライ=ラマ14世の写真が掲げられていた。ダライ=ラマはその時点ですでに何度かカルムイキアを訪問していたという。また、カルムイク語の表記に伝統的な文字であるトド・ビチェクが復活したのもその頃だ。読めない人も多いため発音表が新聞に掲載されていた。仏教寺院を訪ねる機会もあった。ロシア革命までは多くの寺院があったのだが、ソ連時代にほとんどが破壊され、当時エリスタで活動を行っていたのはたった一か所だった。そこで僧の読経を聞いたのだが、周囲の熱心に祈りを捧げる人々の姿が心に残った。

それ以後、エリスタ郊外に大統領が私費を投じた大規模な新寺院が完成するとともに、町中には仏塔(ストゥーパ)がサンクト=ペテルブルグから来たロシア人仏教徒の若者達の助力により完成し、その除幕式にはネパールからわざわざ高僧が招かれていた。(写真2)国内各地にも寺院と僧が配置され、仏教普及のための国際交流も盛んになっている。98年には、大統領が国際チェス協会の会長をつとめていることにより国際チェス・オリンピックが開催され、町のはずれに豪華な建物群が並ぶ別世界のようなシティ・チェスという区画もできた。(写真3)こうした催しを通じて世界に向けて自国をアピールしている。

レーニンはカルムイク人の血も引いているという理由で民族の英雄とされており、当地のレーニン像が破壊されることはなかったが、ある日突然180度向きを変えられた。(写真4)背後に新しく仏像が建立されたためで、仏様に対してお尻を向けるのは失礼に当たるからだそうだ。また、西から東を征圧するのではなく東から西を見据えるのだ、とも聞いた。「東風が西風を圧する」との毛沢東の言葉が思い出される。毎週末にレーニン像前広場は野外ディスコと化す。大音響のもとで踊り狂う若者たちを足下に眺めつつ、偉大なご先祖様はどんな気持ちでいるのだろうかと考えてみたりもする。

国土がヴォルガ河の西側に位置することから、「我々のルーツはアジアにあるが、今はヨーロッパ人だ。ここはヨーロッパ唯一の仏教国である。」という言葉を当地ではよく聞く。実際、カルムイク人は衣食住の面でロシアやカフカースの影響を強く受けており、言葉もモンゴル国のそれとはかなり異なる。このような重層的なアイデンティティは興味を惹かれるところだ。

写真2
写真2:リスタ市郊外の新仏教寺院。
写真3
写真3:リスタ市郊外に建設されたシティ・チェス。

それぞれの人生

この項では、現地で出会った幾人かの人達の生活史の一端を紹介したい。

ウランさん(仮名)は、中国・新彊ウイグル自治区出身のカルムイク人である。中国の大学を卒業してウルムチで教師をして経済的には安定した生活を送ってはいたが、どうしても自民族の国家カルムイキアに一家で移住しようと決意した。ウルムチからまずモンゴル国のウランバートルへ、さらにロシアのこの地へ。遠い道のりであった。同じモンゴル系であってもモンゴル国では大変な差別に遭うなど、その道のりは平坦なものではなかったという。モンゴル民族としてのアイデンティティを持ってはいても、それがただちに汎モンゴル主義につながるものではなく、出自による確執もあるという。彼は、ウランバートルで妻との間にできた長女にイジルという名をつけた。カルムイク語でヴォルガ河を意味する。それだけ、この地への思い入れが深いのである。彼ら夫婦は働き者だ。移住当初は、ある人の好意で小さな小屋を借りて住んでいたのだが、今では自分たちのアパートを所有している。当地で次女も生まれ、今では一家4人のほか両親や兄弟も一緒に落ち着いた日々を送っている。

民族英雄叙事詩「ジャンガル」を謡う吟遊詩人「ジャンガルチ」であるオクナ=ツァガン=ハルグさんを訪ねた。(写真5)ツァガン=ハルグとは「白い道」という意味だ。両親が望郷の思いでつけた名である。彼は強制移住先のシベリアで生まれたのだ。故郷に戻った後も、ソ連時代にはなお民族固有の文化をあからさまに表現することは不可能であった。だが、それらは密かに大切に守られてきた。彼が演奏を聴かせてくれた。伝統楽器ドンブラを奏でながら、ホーミーを織り交ぜて朗々と謡う。それは祖父母から習い受けたものだが、自身はモスクワの大学に進み別の仕事に就いていた。転機が訪れたのはソ連崩壊の時である。彼は失われつつある民族文化を守ろうとジャンガルチを本業とする決心をした。今では民族衣装を身にまとって弁髪を結い、政府からは人間国宝のお墨付きをもらって立派な家も与えられた。フランスでCDを製作し、日本をはじめ世界各地にも演奏旅行に出かけている。彼の歌声を聞きながら、複雑な民族の歴史に思いを馳せた。

 シベリアへの強制移住の後、自らの意志でサハリンに一時期居住した人達もいる。生活環境の良さや高給のためだ。戦後間もない頃のことで、まだ多くの日本人がいた。サハリン協会長のセルゲイ=サガーエフさんは、サハリンで鉄道や缶詰工場に勤務した経験を持つ。彼は、仕事仲間で親しく付き合っていた”カネコ”という日本人の不慮の事故死をしみじみと語る。また、会津の職人の銘が刻まれた鋸を大切に保管していた。押して切る西洋式と違って引いて切る日本式は使いにくかったそうだ。そして、日本人が建立した寺に密かに参拝していたとも言う。意外なところに東の果てと西の果ての仏教徒の出会いがあったのだ。

日本人といえば、カルムイキア南部の寒村に一人の日本の老人が住んでいる。元兵士でシベリア抑留を経験した中川サダオさんだ。1919年東京の生まれで、軍学校を卒業してパイロットになった。マニラ沖海戦など南方戦線に従軍した後、45年にユジノサハリンスクに転属して終戦を迎えた。抑留の後、49年に帰国を許されたが残る道を選んだ。その理由は、病気療養のため、惚れた女性がいたため、など尋ねる人ごとに答えも変わるという。語れない事情もあるのだろう。こうした未帰還者は、いまだに数百人に上るという。厚生労働省は旧ソ連内に462人が残留しているとみる。(注3)だが、現地調査をしなければその正確な数は把握できないだろう。未帰還者が高齢化している現在、早急の調査が望まれよう。中川さんは、ウズベキスタン・ダゲスタンを転住して、82年にカルムイキアにやって来た。2年という約束の仕事のためだったが、おいしい魚が気に入って定住したとか。(写真6,7)今では、三番目の妻とその家族ととも住み、人造湖の水位管理の仕事をしながら、村の子供達に”サーシャ”と慕われつつ一緒に釣りを楽しむ。中川さんからは「ありがとう」の一言以外日本語は聞かれなかった。自分の名さえ漢字が思い出せない。日本への帰郷を望むかという問いにははっきりとは答えてくれなかった。印象深かったのは、真っ直ぐの一本道を帰る私達の車が地平線の彼方に消えるまで、いつまでも直立して手を振り続けてくれたことだ。帰り道の両脇にはいつの誰のものかも分からない古代人の墳墓が点在していた。

カルムイクには”アルグ・ホルワ”という言葉があるという。人生さまざまという意味だ。それぞれの人生そして興亡する民族と、それらを飲み込む変わらぬ広大無辺な大地。そのコントラストが私の心を捉えた。

写真5
写真5:雄叙事詩「ジャンガル」のモニュメントと吟遊詩人「ジャンガルチ」の像。
写真6
写真6:スピ海の漁船。カルムイク人は遊牧の民であり、かつ海の民でもあった。
写真7
写真7:とれたチョウザメ。名産品であるキャビアばかりでなくその身もおつなものだ。

舵取りの行方

冒頭で触れた、大統領となった青年実業家というのは、キルサン=イリュムジノフ氏である。エリスタのごく普通の家庭に生まれた彼は、モスクワ国際関係大学の日本語学科を卒業して一時期日ソ合弁企業に勤務した後、経済自由化の波に乗ってビジネスで成功し、年商5億ドルの富豪になったという。1993年に30歳の若さで保守派候補に圧勝してロシア連邦内初の”資本主義者の大統領”となってからは、大規模な政治改革を進め、私費を投じての経済安定化を行い、カルムイキアは”ロシア急進派の実験場”と呼ばれた。

初訪問時に、国民が大統領に直接面会して相談できる制度があると聞いて、私達も政府庁舎を訪ねてみた。残念ながら大統領はモスクワ出張中であったが、そのかわり補佐官をしているキルサン氏のお兄さんに会うことができた。執務室の前には、幼い子供の手を引いた母親や老夫婦など何人かの人々が列を作っていた。私達の順番が来ると彼は温かく迎えてくれた。「このような制度は非常に素晴らしい」と感想を述べると、彼は嬉しそうに頷いた。そして、ステップを見学したいという私達の唐突な願いを叶えてくれ、政府の公用車を差し向けてくれた。大統領が日本と関わりを持つことからも、非常に親日的な雰囲気を感じた。何人かの口から「世界に日本語の話せるプレジデントは三人しかいない。日本の首相とペルーのフジモリと我が国のキルサンである。」という言葉を聞いた。(実際には当時、日本語を話すプレジデントは他にもいたが。)

それから時が経ち、大統領に対する評価もさまざまである。民族主義的な施策を執る一方で、自国憲法を廃してロシア連邦内に留まる意志を明確にするなど、バランス感覚に優れているとの人物評がある。とはいえ60あまりもの民族を抱える同国において、カルムイク民族を中心に据えた施策は他の民族には不評だ。それが失業問題などとも絡んで反大統領の気運を高めている。さらに、独裁傾向への批判もある。民族衣装で馬にまたがったり、ダライ=ラマと握手したりした、たくさんの大統領の宣伝用ポスター。(写真8)ほかにもラベルに大統領の写真を貼ったキルサン・ウォッカなるものまで売られている。今後どのような政治的展開が見られるだろうか。

カルムイキアと関わりを持って最も有益だったのは、同世代の若者たちとの交歓だ。彼らと露天のバーで夜遅くまで語り合ったり、ヴォルガ河にキャンプに出かけたりなどした。その中の一人は環境省の次官だった。この例も含め、非常に若い人達がこの国を支えている。我が国の明治維新でもそうであったように、大きな時代の変革期には若い力が必要なのだろう。政府要人が全員短期間ウクライナに出かけ、その間若手官僚だけで国家を運営するという実験的な試みもなされたという。新しい国づくりの担い手としての自負を彼らに感じた。その友人達の今後の舵取りに注目していきたいと思っている。

最後に、カルムイク民族の特徴として重要なのは、ディアスポラ(民族離散)の状況にあるという点だ。歴史の項で既述したように、ロシア連邦以外では、中国・新疆ウイグル自治区に多く居住している。そのほか、スターリン時代に亡命した人達がヨーロッパ各地、さらにアメリカのフィラデルフィアやニュージャージー州などにコミュニティをつくった。ソ連時代には、各地域のカルムイク人達が連絡を取り合うことさえ困難だったが、現在では相互の交流が活発になっている。エリスタで知り合った音楽家も新疆でコンサートを開催してきたばかりだった。面白いことに、二百年以上の隔絶の期間を経たにも関わらず、「ブムブルジャン」という犬を題材にした戯れ歌が、双方で変わらず歌い継がれていたそうだ。カルムイキアから仕事や留学で親族を頼って欧米に移住する若者も増えている。また、中華民国(台湾)の行政院には大陸時代から蒙蔵委員会という部署があり、現在では中国本土以外に居住するモンゴル・チベット民族との提携を図っている。同委員会の仲立による交流も、国家間関係を見るだけでは分からないもので興味深いところだ。

交通・通信の発達でグローバル化の進展する昨今、国際情勢の舞台裏では、離散したマイノリティのネットワークの緊密化や、それによる新たなナショナリズムの勃興も顕著だ。私は、漠然としてはいるが、ヒト・モノ・情報の移ろいや交わりを研究テーマにしたいと考えている。その意味からも、ディアスポラとしてのカルムイクのありようは、さまざまなことを教えてくれる。これからも、ひとつのフィールドとして関わりを持ち続けたいと思う。

(以上)

写真8
写真8:統領とダライ=ラマ14世が握手した町中にあるポスター。

(注1)

1989 『ロシア・ソ連を知る事典』 平凡社 に記載のデータによる。

 

(注2)

このため、カルムイクという語はトルコ語の「カルマック(残った)」から派生したとの説もある。

 

(注3)

2002年12月2日 「旧ソ連に強制連行された日本人 未帰還者、いまだ数百人」朝日新聞 による。

地図
出典:『世界民族問題事典』平凡社・1995年

参照文献

<単行本>

 

トゥリシェン[著] 今西春秋[訳注] 羽田明[編訳] 1985 『異域録―清朝使節のロシア旅行報告』平凡社東洋文庫445

 

宮脇淳子 1995 『最後の遊牧帝国―ジューンガル部の興亡』講談社選書メチエ

 

リヴァー[著] 辰巳篤夫[訳] 1940 『追はれて半減し生きた民族―トルグート族』(第一部・第二部)生活社

 

歴史的な視点から、比較的入手しやすい和文献を列挙した。

 

<新聞記事>

 

本田直人[記事] 鎌田正平[写真] 2001年7月22日 「仏教国 欧州でただ一つの―カルムイキア」朝日新聞日曜版(旅する記者50人)

※筆者の幼なじみでもある記者が、筆者ともども同国を旅した

記録。