2008年シカチアリャン採拓紀行

シカチアリャン採拓紀行 その1

まだ薄暗いうちにクラブキャンプ地を出て、朝露の降りた草を踏みしめ河辺に降りてみる。冷えた空気が心地良い。靄の中にアムールの滔々とした流れが見えた。午前8時、ちょうど9月末の太陽が赤々とした顔を出したところである。さっそく皆で河辺にごろごろと点在する岩の下見を始めた。そのいくつかには岩絵(ペトログリフ)がくっきりと刻まれている。鬼のような形相で睨みつけ我々を迎えてくれているものもある。(写真)。さあ、これからお前たちの拓本を採ってやるぞという決意が沸いてきた。

今回のシカチアリャン訪問は、村のアムール河畔に存在する1万2千年前のものとされる岩絵の拓本を採るのが目的だった。私自身は大阪のアンコールワット拓本保存会の田中会長をはじめとする6人の専門家の皆さんのアテンドという立場である。たまたま私がこの時期に時間的余裕があったので、クラブの有志の方々からの援助によってアテンドとして参加することができた。ここでお礼を申し上げたい。私自らは拓本についての知識は何もなく採拓に参加するのは初めての体験だった。ただ、クラブに関わるようになった直後の1995年に一度シカチアリャンへの旅行に参加したことがあったため、村に対する思い入れもあり、十数年経った村の変貌の様子を見たい気持ちも強かった。

シカチアリャン村は、数年前の中国黒竜江省の化学工場の事故の影響による河川の水質汚濁のために、主たる生業である漁業が禁止されて存亡の危機に立たされている。それは直ちに同地のナナイ民族およびその文化や言語の危機に直結する。岩絵の採拓は、貴重な文化遺産を日本に紹介するというのが目的だが、将来的には文化財保護とその観光化によって村の振興に役立てるという意味合いもある。現在クラブでは、村の次世代を担う有望な青年を日本に招いて農業と養殖漁業を研修させるという計画も進んでおり、今回の採拓もこうした地域振興の長期的展望に立った取組みの一環なのである。

訪問は今年9月29日から10月3日まで。気候がよくアムールの水位が最も低くなる時期を選んだ。ただ、採拓にかけられる実働日はわずか3日という慌ただしさで、後に述べるようにいくつかのトラブルにも見舞われた。そうした中、計画に賛同して協力していただいた上記保存会の方々には本当にお世話になった。改めてお礼を申し上げたい。

人面のマスク

出発の29日にはすでに最初のトラブルに見舞われた。新潟からハバロフスクまでの空路がハバロフスク航空の倒産でウラジオストック航空に移管されたという事情で、飛行機の出発が5時間近くも遅れてしまったのだ。深夜にやっとハバロフスクに到着し、バスに乗り換えてシカチアリャンに到着したのはもう日が変わってからである。保存会の方々は年配であるし、うち3人は前日大阪から夜通し車で新潟まで来られていたこともあって、皆さんお疲れの様子であった。それでも30日の到着翌早朝には、冒頭に記したようにもう下見に出かけたのだ。いよいよ採拓の開始である。

シカチアリャン採拓紀行 その2

9月30日朝。朝食を終えたところに村役場からの迎えの車が宿泊地のクラブキャンプに到着した。何でも今すぐにニーナ村長のところに行ってくれとのことである。ここで私はひとつ失敗をした。すでに採拓の用意を整えていた保存会の方々に採拓道具は置いていってかまわないとお伝えしてしまったのである。実は、村役場から直接岩絵のポイントへ案内されるという段取りを知らなかったのだ。

村役場を表敬訪問すると、ニーナ村長のほか、ナナイ民族の伝統文化継承の責任者であるビカさん、ハバロフスク市から駆け付けてくれたハバロフスク州文化局の考古学担当のラスキンさんがすでに待っていてくれた。ラスキンさんは10年前の日本の岩絵調査団にも若くして参加したとのことで今回の頼みの綱だ。ニーナ村長からの歓迎の挨拶をいただき、保存会の側からは田中会長が挨拶をされ、村の子供たちへの文房具やおもちゃなどの贈呈が行われた。ただ、通訳として雇った年若いオーリャさんはすっかりあがってしまった様子で訳もしどろもどろで、時間が気がかりな保存会の方々は少々焦っておられる様子である。「井出さんが手際よく訳してください」と言われたが、残念ながら私のロシア語力もオーリャさんの日本語力ぐらいしかない。この言葉のコミュニケーション・ギャップもいろいろな不都合をもたらす要因となった。お恥ずかしい限りである。

さて、表敬訪問を終えてさっそく考古学者のラスキンさんが岩絵のポイントを案内してくれることになった。今日の採拓は第1ポイントと第2ポイントと決めてある。これらは隣接していてクラブキャンプ地からも村役場からも徒歩圏の範囲だ。

シカチアリャンの岩絵のポイントは、東京で事前に見た資料によると、第1から第6まである。その資料は1930年代に当地へ初訪問して以来岩絵を調査してきたロシアの考古学者オクラドニコフによるものである。各ポイントの目ぼしい岩絵の精緻な模写も付随している。クラブ代表の大野さんからは、出発前に何度か模写をもとにした岩絵についてのレクチャーを受け、各ポイントで採拓すべき岩絵の候補を指示されていた。どれもナナイ民族の伝承や生業と関わりがあったり、周辺地域に類似の岩絵があったりするものである。云わばそれらは物語性を持つもので、今後計画している展覧会での展示のあり方を視野に入れての選択である。

ニーナ村長(右)と考古学者のラスキン氏(左)

さて、村役場から直接第2ポイントに行き、ラスキンさんの説明を受けながらキャンプ地に近い第1ポイントまでそぞろ歩きする。残念ながら採拓道具を置いてきているので、岩絵の所在を教えてもらいながら後の拓本作業のために目印を付けていくだけだ。実働日が3日しかないのでこれは大きな時間のロスになってしまう。第1ポイントでの一番の狙いは船を描いた岩絵である。これは、北海道のフゴッペ洞窟にも同じ図案の岩絵があるため、海を挟んだ文化の共通性を唱えるためにどうしても欲しい1枚なのだ。

シカチアリャン採拓紀行 その3

第1ポイントにてラスキン氏に船の岩絵について尋ねると、それらはすでに摩耗して見えなくなっていたり、砂の中に埋まってしまったという答えが返ってきた。ポイントがどこからどこまでかという指標もないだだっぴろい河原に岩がごろごろと点在している。はっきりと判別できる岩絵は確かにいくつかあるのだが、人の手で描かれた模様なのか自然にできた模様なのかにわかには判断がつかないものが多い。さらに困難なことには、いたずらで岩が削られているものもある。ロシア語のほかにハングルも目立つ。これでは目当ての岩絵を探すのは簡単なことではないなとようやく分かってきた。
ただ、岩絵の所在をよく知るラスキン氏がいっしょにいてくれることが心強かった。ところが、そのラスキン氏は翌日から遠くコムソモリスク・ナ・アムーレに出張するとのことで午後4時には帰ってしまった。

採拓の様子。背中にマスクをつけた若駒らしい図像(第2ポイント)

それでも第2ポイントには比較的目立つ岩絵の多かったので、拓本保存会の皆さんはめいめい岩絵の採拓本とりかかる。さすがにプロだけあって手際よく作業が進む。現地の協力者であるグレゴーリ氏が遅い昼食として温かいスープを船で差し入れてくれたが、保存会の方々の中にはそれに手を付けるのさえ時間がもったいないと作業に没頭される方もおられた。ともかく第2ポイントではそれなりの収穫を納めることができた。人の顔が胴体にある馬や内臓が描かれた鹿など面白い図柄もある。

シカチアリャン採拓紀行 その4

翌10月1日。作業2日目である。この日はメンバーを2つのグループに分けた。拓本保存会の林、田中、山内の各氏と通訳のオーリャは第1グループで、前日に収穫のあった第2ポイントでもう一度採り残した岩絵の採拓をした後、初めてとなる第4ポイントに向かうことになった。拓本保存会の久藤夫妻、久場の各氏と筆者である井出は第2グループで、直接初めてとなる第3ポイントに向かうこととした。

前日の打ち合わせのとおり朝8時30分に起床し9時に出発。限られた時間でできる限りの成果を上げようと効率よく準備を進める。キャンプ地近くの川岸から案内役のグレゴーリ氏が我々を順々に持ち場にボートで送り届けてくれる。第2ポイントから見て第3はアムールの支流を少し遡上した所、第4はそのさらに上流に位置する。筆者ら第2グループは先に出発した第1グループが第2ポイントで作業しているのを垣間見つつ第3ポイントに到着し、そこで作業を開始した。鬼のようなマスクやよくはわからないが美人画のような岩絵など面白いものをいくつか発見でき、各自採拓の作業に入った。そのうち第2ポイントで作業を終えた第1グループが第4ポイントを目指し我々の前をボートで通過しお互い手を振り合った。そこまでは順調だった。

だが、しばらくしてグレゴーリ氏が筆者らのいる第3ポイントに一人ボートで戻り筆者に通訳をしてくれと言ってきた。いったいどうしたのだろう?ボートでアムールの中州に来てみると第1グループの保存会の3名の方々が待っていた。グレゴーリ氏はここが第3ポイントだと言っているとのこと。だが、オクラドニコフの資料の地図によっても第4ポイントは中州にはなくアムール支流の右岸であることは明らかなはずだ。グレゴーリ氏にそう説明して皆でボートに乗り川をまた遡上して行く。まもなく支流の右岸の砂地の場所に到着し、ここが第4ポイントなのではないかとグレゴーリ氏は言う。しかし、第3ポイントは小さな小川が流れ込んでいる合流地点の川上で河岸段丘の上には墓地があることが地図からも分かるのだが、グレゴーリ氏の指す場所にはそのような特徴はない。山内氏は、グレゴーリ氏は読図もできないのではないかと立腹される。パイロットでもあるグレゴーリ氏に地図が読めないはずはないと思うのだが…。さらに、大学を卒業したてのオーリャさんがまだ十分な通訳の役目を果たせないことにも苛立ちを感じておられるご様子だ。

砂ばかりで岩すらない第4ポイント。丘の上に墓地が見える。
第1グループの出発(左から)グレゴーリ、山内、林の各氏

ともかく、もう少し上流にまで行ってみようと相談して、ゆっくりとボートを右岸に沿って遡上させていった。すでにシカチアリャン村から離れ隣のマリシェボという町の区域に入った。ほどなく小川との合流地点を越え、丘の上に墓地のある第4ポイントと思われる場所に到着した。さっそく下船して皆で岩絵の探索を開始した。しかし何もない。本当に何もないのだ。砂ばかりで岩すらも…。

シカチアリャン採拓紀行 その5

砂ばかりで岩すらもない第4ポイントに降り立って私たちは当惑した。よく見れば河岸段丘のはるか上の位置に2,3の岩絵を確認できたが、それらは高すぎて採拓は不可能だ。拓本保存会の方々は残ったわずかな岩にワイヤーが巻きつけられていることを発見した。明らかに人の手で岩が持ち去られた証拠である。この第4ポイントは、シカチアリャン村の隣町のマリシェボの管轄地域にあり、マリシェボでは大規模な港湾工事を行ってドックがあり、アムール河を行き来する大型船が出入りしている。この港湾工事のために第4ポイントもすっかり変貌してしまったのではないだろうか。何しろオクラドニコフの調査から長い年月が経ってしまっているのだから。「オクラドニコフの調査はいつだったのか?」という拓本保存会の方々の質問に対し、「最初は1930年代です」と私が答えると、「私が生まれた頃よ」と皆さん唖然とされていた。

結局何の成果もなく、グレゴーリ氏の迎えのボートで、保存会の方々3名、次いで通訳のオーリャと私が、ピストン輸送で第2ポイントまで引き返すことになった。その際、私はいちど大切なカメラバックを第4ポイントの砂地のどこかで見失ってしまい、もう一度探しに戻るなど一向にはご迷惑をかけた。これも岩絵を見つけられずすっかり意気消沈して犯した失態である。そして、この日の残りの時間は、一番岩絵の多い第2ポイントで保存会の方々が各自気に入った岩絵の採拓に従事することになった。わずかな滞在時間をできる限り有効に使いたいという保存会の方々のお気持ちを無にしてしまい、こちらも申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

ユーラシアンクラブのキャンプ地の入口の看板
通訳のオーリャさん
アムール河を臨む

さて、その夜、夕食時に皆が集まったとき、保存会の方々から口々に今回の採拓旅行の不満を述べられ、私はその矢面に立つことになる。曰く、「我々は考古学者ではないから岩絵を探しに来たのではない。芸術的価値のある拓本を採ることに心血を注ぎたいのだ。なぜ事前に岩絵の正確な場所のデータを用意していない。」「資料の準備が怠慢である。こちらは与えられた資料を信じてしまう。自分で確認していない資料で人に依頼するべきではない。」「そんなことではクラブの基本姿勢を問われる。拓本の展覧会も真剣に努力しなければ無理。」「時間の無駄が多すぎる。我々は拓本を愛して自分達の誇りとしてやっている。それを無にされた気持ちである。」等々。どれも、拓本に命をかけてこられた方々の発言としてはもっともなことで、こちらは反省して聞き入るばかりだ。 その後に、東京に定時連絡を入れた。代表の大野氏に現地の様子を伝えるがなかなか実感として理解してもらえない。まだオクラドニコフの図柄を参照して欲しい岩絵の拓本を指示してくる。東京の事務所とフィールドの現場とでは認識に大きな差があるなと感じる。筆者はその板挟みの状態になって、「さて、これからどうしたものだろう?」と一人思案しながら夜は更けていった。

シカチアリャン採拓紀行 その6

夜が更けてから、採拓した拓本をともかく見てみようということになり、順番に壁に貼って写真撮影を行った。いろいろなトラブルに見舞われたものの、これまでに合計で32点もの拓本を収集できていた。その中には、美人画のようなものも含まれ、皆で「これは素晴らしい岩絵だ」と見とれた。その後、グレゴーリ氏は思い出したように、「第4ポイントにあった岩絵は確か20年ほど前にサンクト・ペテルブルグの博物館に持って行かれたことを新聞で読んだ気がする」と話した。そして、この日に第4ポイントの場所を間違えた自身の失敗に責任を感じたこともあるのだろう、翌日第5第6ポイントに行く際にはよく知った人を連れてこようと申し出てくれた。しばらくして呼ばれてやってきたのは漁師のミーシャ氏だった。ミーシャ氏と翌日の打ち合わせをしてこの日は眠りに就いた。

翌朝早くミーシャ氏が車で迎えに来た。我々は車に同乗して隣町のマリシェボにある第5第6ポイントに偵察に出かけた。車で20分ぐらい走ったろうか、第5第6ポイントに到着したが、やはり第4ポイントと同様に砂ばかりの場所だ。自然になのか人工でなのかはわからないが、アムールの支流の流れも変わっており、ポイント付近にはすでに水の流れはなく、砂が堆積しているばかりだ。おそらく岩絵は砂の中に埋まってしまったのだろう。せっかくミーシャ氏に正確な場所に連れて来てもらったとはいえ、これでは作業にならない。結局、作業の最終日であるこの日は、一番多く岩絵の点在する第2および第3ポイントで採拓し残したものを採ろうということに落ち着いた。

保存会の皆さんは各自それぞれ気に入った岩絵の採拓作業に入った。そのなかで久場氏は、シカチアリャン村の村長のニーナさんに拓本の採取方法を教えてあげようと申し出てくれた。自分たちの村にある文化遺産を自らの手で保存するということは大切なことである。とてもありがたいお話だ。昨日見とれた美人画のような岩絵を選んで、久場氏はニーナさんに丹念に採拓の仕方を教えてくださった。さらにその晩には採拓道具一式を村に贈呈までしてくださったのだった。

久場氏からニーナ村長への採拓道具一式の贈呈

 夕方、採拓を終えた我々は村役場に出向き、役場の中に併設されているナナイ族の博物館を見学した。これにはナナイの民族文化伝承者であるビカさんが案内を務めてくれた。復元された住居や魚皮の衣服また装身具など貴重な品々が展示されていた。見学を終えて三々五々クラブのキャンプ地へ戻る。その途中、私にはひとつ用事があった。クラブではナナイ族とシカチアリャン村の将来を考えて、村の若者を日本に研修で招待するという計画もある。その候補者の一人に会って、手続きのためにパスポートのコピーをもらい証明写真を撮るのが用事だ。彼の家に立ち寄り初対面の挨拶をするが、彼は何だか覇気がない。村での滞在も今夜が最後だから、撮影のため夜に必ずクラブキャンプ地に来いと念を押して別れたが、彼は結局来なかった。鮭漁の季節で漁が忙しいからだった。長い将来を考えれば、日本での研修は大切なことだと思うが、彼には目先のことしかないのだろうか。村の将来に一抹の不安を感じたのだった。

シカチアリャン採拓紀行 その7

いよいよ最終日の夕方となった。ナナイの文化伝承者であるビカさんが子供たちを連れてクラブ・キャンプ地にやってきた。皆はナナイの伝統服に着替え演目の練習を始めた。私たちにナナイの伝統芸能を見せてくれる準備なのだ。子供たちはとても可愛らしい。

キャンプの建物の一室でその芸能が始まった。演目は、ナナイの子供の遊びや歌や踊り、そして三つの太陽のうちニつを射落とすという神話の寸劇などだった。拓本保存会の皆さんも興味深そうに見入って非常に楽しんでいただけたようだ。

その後、これまでお世話になってきた方々とともに夕食を共にした。村からは、先に触れたビカさんや村長のニーナさんなど。また通訳を務めてくれたオーリャさんのご両親もわざわざハバロフスク市内から駆け付けてくれた。

そうして楽しく夜が更けていったのだが、ひとつ気がかりなことがあった。それは翌日の出国の際の税関検査である。拓本の持ち出しのためにハバロフスク州政府の文化局から許可証を得てはいたが、それは1枚だけである。拓本は大量にあって保存会の6名の方々がそれぞれ荷物に入れて小分けしているので、1枚の許可証だけでは万が一のことを考えると不安である。それをニーナさんに話すと、翌朝私たちと一緒にハバロフスク市内まで行き文化局に話をつけてくれるという。ありがたいことである。

翌朝まだ暗いうち、私たち日本からの一行7名と案内役であるグレゴーリ氏、通訳のオーリャさん、そしてニーナ村長が、迎えに来たバスに乗ってハバロフスクに出発した。市内に着くとひとまずインツーリストホテルに寄り、保存会の皆さんはそこでお土産を買ったりオーリャさんの案内でアムール河の岸辺の公園などを散策した。私はニーナ村長とグレゴーリ氏とともに州政府の文化局に許可証の件で出向いた。対応してくれた責任者はゾーチン氏という方で親身になってくれた。結局、6名の採拓者が1枚づつの拓本を参考資料として提出することを条件に、6名が拓本を分散して持っていることを明記した証明書を作ってくれることになった。ゾーチン氏は最後に、「これまでクラブはシカチアリャンのために多くの貢献をしてきた。その名前は多くの人が知っている。」と好意的に語った。許可証をこころよく発行してくれたのも、これまでの大野代表をはじめとするクラブの皆の努力の賜物だろう。

さて、それからが慌ただしかった。飛行機の出発前のわずかな時間で保存会の方々各自が自らの大切な拓本から1枚ずつ選び出さなければならない。そのためにインツーリストホテルに急遽部屋を一室借り、何とか時間までに文化局に提出して許可証を得たのだった。実際には、出国時に何も問われることはなかったのだが。

ハバロフスク駅での集合写真

無事に新潟空港に到着しそこで解散となった。今回の成果であるクラブ用の32枚の拓本を保存会の方々からいただく。ずっしりとした重みが感じられた。今回、保存会の方々には本当にお世話になり、また不手際でご迷惑もおかけした。ここで改めてお礼とお詫びを申し上げたい。これから、この拓本をシカチアリャンの村おこしのため、とりわけナナイの子供たちの将来のために役立てなければ、との決意を抱きつつ私は夜遅く東京へ向かう列車の客となった。(終わり)